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◆ バードマンの谷

 あれはヨーロッパだったろうか。それともアフリカだったろうか。いや、もしかするとアジアのどこかだったかもしれない。ただ、はっきりとしているのは、あのポスターを見たのが地下鉄の壁だった事だ。だとしたら、あの大都会はパリか、ロンドンか。うん、やっぱりあれはパリの壁、つまりメトロの地下道だったに違いない。

 それにしてもずいぶん昔になってしまった。あの頃、ぼくはまだ学生で、ずしりと重いバッグパックを肩にくいこませ、いつも腹ペコの貧乏旅行を笑いながらしていたっけ。記憶のカラーフィルムの大部分はセピア色にあせてしまったけれど、今でもあのポスターは鮮やかに浮かび上がる。あれはジャン・ミシェル・フォロンの作品だったと思う。ブルーの空をバックに、鳥の形をした人間が高く舞っている絵。その下に白抜きの文字で「バードマンズヴァレイ」。鳥人間の谷と記してあった。ただそれだけ。その言葉の不思議な魔力に誘われ、ぼくはあの大都会を離れる決心をしたんだ。

 トンネルにその電車は入った。岩壁に響く金属音。レールの真ん中に設置されたラックレールのギザギザと、車体の下で回る歯車が噛み合う音だ。アプト式とかいう登山鉄道が、垂直の岩壁に掘られたトンネルをゆっくりと進んでいる。急勾配だ。ぼくは木製の椅子から滑り落ちない様に、しっかりと足をふんばっていなければならなかった。車内には世界中からの観光客。その全員が突然のまぶしい光に歓声をあげる。トンネルが開けて電車は雄大な風景の中にいた。夏の太陽に照らされた純白の峯々。あれはやっぱりアルプスだったのかもしれない。きらきら輝く傾斜のきつい屋根の群れ。眼下には、もうあんなに小さくなって谷間の町。その外れに、ゆうべぼくが泊まったユースホステルが見えた。次の瞬間、再び電車は轟音と闇の中にいた。

 夜行列車に飛び乗って、おさらばした大都会。いくつも町を通過して、いくつも列車を乗り換えて、ぼくは夜遅くヴァカンスシーズンの観光地に到着した。宿に困っていると、親切なおばさんが連れていってくれた若人の宿泊施設。満員だったけど、ホステルのやさしいペアレントが、ぼくを笑顔で迎えてくれた。廊下の磨かれた床の上で寝袋に包まれて横になっていると、おやすみのキスをくれた金髪の少女。一瞬、そのほっそりとした後姿が暗闇にプレイバックされた。
 バードマンズヴァレイ。どうしてぼくはこの名を知らなかったのだろう。いや、本当は知っていた。だからぼくは迷わずにここに来た。ただ、そのあまりに夢的な響きに恐れをなして、無理に忘れようとしていただけなのかもしれない。だって、もしも本当にそんな場所が存在したら、この世界全てがただの夢に終ってしまうから。ぼくは潜在意識の底で憧れ続けていた目的地に、一歩づつ確実に近付いていた。
 終点。ぼくは洞窟のプラットホームに立っていた。目の前で開いたエレベーターのドア。再びそれが開くと、ぼくは混雑したロビーにいた。手続きを済ませると鳥人間に変身するための講義を受けた。簡単な説明だった。こんな事で人間が鳥になれるのだろうか。あの広い空を飛べるのだろうか。それからバードマンスーツを借りる。フライトの順番を待つ人の列に、ぼくはあの金髪のほっそりとした後姿を見た様な気がした。
 風が舞うフライトデッキ。アーチ型の鉄橋を半分にした様な構造物の上に、ぼくは立っていた。ここが鳥人間の谷の入り口なのだ。はるか下には氷河の雪解け水をたたえた湖。あれは何万年も昔の水。直射日光にキラキラ輝くその表面から、絶えず気流が上昇している。目を上げれば、ブルーの空をバックに鳥人間達。今日は絶好の鳥人間日和だ。ぼくは最初にここで鳥になった人物の勇気を賛えた。動物の骨と皮で作った翼に比べたら、このバードマンスーツはどうだ。ルールさえ守れば、その安全は確実に保証されている。誘導員がぼくのバードマンスーツを操作した。ヘリウムガスの充満する音がして、ぼくの背中に翼が生まれた。風が来た。
「グッドラック!」
 ウィンクした誘導員の顔がすっと遠くなり、フライトデッキがゆっくりと回転する。次の瞬間、ぼくは鳥になっていた。
 さっきの講義を思い出し、翼の下の取っ手をしっかりと握った。耳をかすめて空気が鳴る。うまく風をつかまえたらしい。ぐうんと体が持ち上げられる。深呼吸をひとつ。そして両手両足をバランス良く動かした。風が友達になった。糸の切れた凧から、ゆっくりと鳥に進化する様に飛び方をマスターする。

 なんて気持ちがいいんだろう。きっとぼくは昔、鳥だった事があるに違いない。でなかったら、こんなにうまく飛べるものか。ほら、もうフライトデッキがあんなに小さく見える。そこから次々と鳥人間達が舞い上がる。色とりどりのバードマンスーツ。ストライプに水玉模様。鳥そっくりにペイントしたヘルメット。それぞれに工夫し、個性を競い合っている。スピードを自慢する者。ウィンドホイッスラーで騒々しく音をたてて飛ぶグループ。あれは鳥人間の暴走族だろうか。そうかと思うと、老夫婦がゆったりと空中散歩を楽しんでいる。ハトにツバメ。カラスにカモメ。コンドルもいれば、アホウドリもいる。鳥になった人間模様。ほら、あれこそスズメの学校だ。生徒達を従えた教官の姿。ぼくは降下しながらバードマンウォッチングとしゃれた。それからまた上昇気流をつかまえると、たっぷりと高度を保つ。大きく旋回する。ぼくのすぐ横を本物のワシが浮かんでいる。風と友達になりさえすれば、人は誰でも鳥の仲間になれるのだ。ぼくは言葉を口にしてみた。するとそのフレイズを風がさらっていった。

 自由で気ままな空中散歩に夢中になっている間に時が過ぎていたらしい。太陽は西に傾き、日差しが弱くなっていた。下からの風も弱くなっている。いつか鳥人間達も数がへり、フライトデッキの人影も消えた。絶壁に囲まれた湖の、太古に氷河が削って出来た平坦な岸辺に向かって鳥人間達が降下していく。そこは風もなく、彼等はヘリウムガスの浮力によってゆっくりと落下し、やがて着地する。失敗して水に落ちてしまう者もいるらしく、巡回のモーターボートが湖面を滑っていく。ぼくは最後の上昇気流をつかまえると、もう一度だけ高みに昇った。もう、あの少女は地上に戻ってしまったのだろうか。それともさっきのはぼくの見誤りだったのだろうか。ひとり旅もいい。ひとりの空中散歩もいい。だけど、ほんの少しでいいから誰かとこの素敵な時間と空間を共有したかった。ぼくは目を凝らして周囲を見回した。あの少女の姿はなかった。ただ、斜陽を受けて岩の壁が複雑な陰影模様を作り出していた。ぼくはすっかり傾いた太陽をあおいだ。すると、一羽の鳥が目に飛びこんだ。光の弱くなった空に、西日を浴びて浮遊する金色の鳥。金色の髪。あの少女だ。ぼくの網膜にその美しい姿が焼き付けられた。

 ぼくは精一杯翼の面積を広くして、その高さに挑戦した。仲良く遊ぶ二羽のカモメ。そんな絵が心に浮かんだ。そして、ぼくの姿を認めた少女が悪戯っぽく笑っていた。

 あれからその少女に会う事はなかった。そして容赦のない時の流れがぼくをここまで押し流してきた。あの少女にも、神はこの時の川から逃れる術を与えはしなかっただろう。無限に変化するマテリアルワールド。ただ、記憶だけが時間の定着液となって、この黄昏の薄暮に遊ぶぼくをあの青い空間に呼び戻してくれる。そこでは今も、あの美しい金色の鳥がぼくを待っていてくれるのだ。



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